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2012年11月29日木曜日

姨捨山~Obasute-yama

姨捨山(Japanese folklore "Obasute-yama")

Thanks to D

日本語の文章は、http://www.pref.nagano.lg.jp/kids/menu3/minwah01.htmより引用しています。

 昔、年よりの大きらいなとの様がいて、「60さいになった年よりは山にすてること」というおふれを出しました。との様のめいれいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

Long long ago, There was a lord who is hating old people. He said "People who getting 60 years old are thrown away in the mountain." Anyone couldn't defy about his order, Parent, Child, everybody had given up to go against. If the day comes, everybody had gone to the mountain.

  ある日のこと、一人の若い男が60歳になった母親をせおって山道をのぼっていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道にすてています。男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

One day, a young man carried his 60 year old mother up the mountain. Inadvertently, he noticed that mother break a tree branch, and abandon to the road. He had wondering about it, but he began to walk without asking anything.

  年よりをすてるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

The place that thrown old people away is deep mountains. It was getting dark when a young man tried to return. A young man was lost his way, and went back to the mother.

 むすこのすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目印にお帰り」。子を思う親のやさしい心にふれた男は、との様の命令にそむくかくごを決め、母親を家につれて帰りました。

The grandma saw her child, said "For this occasion, I had broke branches on the way. You should go back follow it". He had faced the mother's tender heart, he decided to defy their lord. He took his mother back to home.

  しばらくして、となりの国から「灰でなわをないなさい。できなければあなたの国をせめる」と言ってきました。との様は困りはて、だれかちえのある者はいないかと国中におふれを出しました。男がこのことを母親につたえると、「塩水にひたしたわらでなわをなって焼けばよい」と教えられ、男はこのとおりに灰のなわを作り、との様にさし出しました。

After a while, The Lord of neighboring big country said "Make a rope with ash, Or your country are attacked". The lord is greatly perplexed, asked everybody "Is anyone there who has good idea?" A young man told his mother about this, she said "soak straws in the salt water, and make a rope with it, then burn it". A young man did it, and presented to the lord.

  しかし、となりの国ではまたなんだいを言っていました。曲がりくねったあなの空いた玉に糸をとおせというのです。今度も男は母親に、「1つのあなのまわりにはちみつをぬり、反対がわのあなから糸を付けたアリを入れなさい」と教えられ、との様に伝えました。 すると、となりの国では「こんなちえ者がいる国とたたかっても、勝てるわけがない」とせめこむのをあきらめてしまいました。

But, The Lord of neighboring country had been saying the impossible again. "Thread a ball with winding hole".  A young man asked his mother again, then she taught that "Spread the honey around a hole one side, and put a ant with a yarn on the other side". He did it, and presented to the load again.

Then, The Lord of neighboring country thought that "I would not win, if I fight with this country there are people of wisdom", and gave up the attack.

  との様はたいそう喜び、男を城によんで「ほうびをとらす。ほしいものを言うがよい」と言いました。男は、「ほうびはいりません。実は・・・」男は決心して母親のことを申し上げました。

The Lord had very happy, and called a young man to his castle. He said "I will give you a reward. Say what you want". A young man said "I want nothing. As a matter of fact...". A young man decided to tell about his mother.

「なるほど、年よりというものはありがたいものだ」と、との様は自分の考えがまちがっていたことに気づき、おふれを出して年よりをすてることをやめさせました。それからは、どの家でも年おいた親となかよくくらせるようになりました。

"Hmmm, Old people are valuable". The Lord had noticed that his idea was wrong, and put a stop to throw old people away. Since then, Everybody can live with their old parents.


姨捨山(おばすてやま)(長野地域 Nagano, Japan)


:Caution

姨(oba) means that mother's sister.
捨(sute) means that throw away.
山(yama) means that the mountain.

姥(uba) means that grandmother.

Therefore, According to the theory, It is a Ubasuteyama(姥捨山) not a Obasuteyama(姨捨山).






2012年11月21日水曜日

可能の王国は築けるか?~ペイ・フォワードの教訓

先日チャットをしていたら、友人が「ペイ・フォワード」という映画の話をしてくれました。

この映画のあらすじとしては、

一人の少年が、まず、3人に対して何か良いことをしてあげます。その3人は、その少年に恩を返すのではなく、全く別の3人に良いことをします。それを受けた3×3人は、また別の3人に良いことをします。その3×3×3人は、また別の3人に… 

こうして、たった一人から始めた善意は膨大に拡散していき、やがて世界を埋め尽くすだろうという考え方にそってストーリー展開がされていきます。

いわば、ねずみ講の善良版ですね。
(注:ねずみ講との決定的な違いは、利益がバックされず、常に前方にのみ進むことです。このため犯罪のモデルとしては利用しにくくなります)

友人とチャットをしながら、なかなか面白そうな映画だなと思ったわたしは、ふといたずら心がわいたので、「なんで3人かわかる?」とたずねました。

彼が「わからない」と言うので、わたしは以下のように答えました。



 人間はそもそも、善であるか、悪であるか? 
 わたしの答えは、「善人もいれば、悪人もいる」である。 
 その善悪の度合いこそ様々であろうが、世界が善意に溢れてはいないし、かといって悪意にも満ち溢れてもいないことから考えると、おそらくその比率は半々だろう。
 つまり、あなたの隣にいる人が善人である確率は1/2だし、悪人である確率も1/2だ。 
 無償の善意に対峙したとき、善人は感謝するが、悪人はお人好しとあざ笑うだろう。 
 もし仮にあなたが無作為に他者に対して善行を施し、別の他者に対してその行為を伝えるように促した場合、その人がそれに対して感謝の念を抱き、他の誰かにそれを伝える確率は1/2となることになる。
 つまり、2回に1回は伝わらずに途切れる。

 仮に伝えるのが1人であった場合、その次に伝わる確率は1/2、その又次に伝わる確率は1/4、その又又次は1/8…と、どんどん少なくなっていく。つまり、確実にどこかで途切れる。 
 では2人であった場合はどうか? 確率どおりにいけば、2人のうち1人が伝え、1人が伝えないので、常に1人が1人に伝えていくことになる。これではただのバケツリレーで絶対に拡散するはずがなく、世界を満たすことは不可能だ。 
 これが3人になるとどうなるか? 2人に1人が次に伝えるので、3人に行った場合は1.5人が賛同して次に伝える運動に加担する。1人がこの運動を行うと1.5人が次に伝えるわけだ。つまり、1.5×1.5×1.5…というように、1.5の累乗で伝わる人間が増えていき、次第に拡散する。 
 理論値では、10回の伝達が行われた場合57.6人、20回で3325人、30回で19万人、40回で1100万人、50回で6億4千万人、56回で72億人になるのでこの段階で善意が地上を席巻する。(正確には半数が悪人という前提なので、55回目以降は同じ人同士の善意のループになり、これ以上拡散しない。また、これは延べ人数である)
 4人以上であれば、より少ない伝達回数で済むことは、これ以上説明するまでもないだろう。

 しかし、見返りを求めない行為というのは言うだけなら簡単だが、実際に行うのはかなりの負担だ。皆、自分が生きていくのに精一杯で、他人に対する思いやりはなかなか持てないのが現実世界であり、それが、全く見ず知らずの赤の他人に対してであればなおさらだろう。 
 だから、出来るだけ沢山の人に伝えようなどということは望むべくもない。 もしどうしてもしなければならないのであれば、可能な限り少ない人数の方が良いことは明白だ。 
 この運動は、次につなげながら拡散させていき最後は全てを埋め尽くすことを目的としているので、次につなげようという意思そのものを阻害してしまうような人数であってはならない。 
 これらを考慮すると、3人という数字は、個人の負担を極限まで減らしつつ運動を確実に拡散させていくための必要最低限の人数であるということが結論付けられるのである。
 以上が、わたしが考えるマジックナンバー“3”の意味だ。

そうすると、友人が「でも、人間はそう簡単に善人とか悪人とか区別できないよね?」というので、わたしはこう答えました。


 仮に人間が善でも悪でもないとする。 
 その場合、人の行いはその時点でのその人の境遇と心理状態に左右される。 
 その人が上機嫌か幸せであれば、恩を受けたらそれを誰かに伝えることはやぶさかではないし、不機嫌か不幸であれば、なかなかそれはかなわないだろう。 
 幸せという概念は人それぞれに価値観が違うので、裕福であっても不幸だと感じる者もいれば、貧困でも幸福ととらえるものもいてその経済状態では判断できないから、これを理由としてどちらかに偏ることはないと考えられる。 
 常に不機嫌な人もいることはいるが、同じように常に上機嫌な人もいる。そういう特異な人を除くと、大抵、人は上機嫌であったり不機嫌であったり定まらず平均する。 
 つまり、やはり次の人に伝わる確率は1/2だ。




チャットをしながら、「ああ、これ、ブログのネタになるな…」と思っていて、今日、時間が空いたのでDVDを借りてきて初めてみました。

女性と関係を持ったことがない(おそらくデートもしたことがない)先生が、少年の母親に会いに行くために、ブラウンのスーツにおおよそ合わない白いスニーカーを履いて行ったり、学のない母親が先生のしゃべり方に対して自分が見下されていると勝手に思い込んで劣等感を感じたり、アルコール依存症患者のDVとその被害者の関係が深く関わっていたりと、本題としての善意の伝達とはあまり関係のないところのストーリーや描写の作りこみにまでこだわりを感じる、素晴らしい映画でした。



 この記事を書くにあたり、他に同じことを考えている人がいないかと思い「ペイフォワード "なぜ3人"」という検索ワードでgoogle検索してみたところトップがこれ(http://blogs.yahoo.co.jp/keiichih2002/47768891.html)でした。

慧君さん、納得いただけますでしょうか?

他にはヒットしせず、2000年の映画の割に誰もこれについて論じていないので、そこはあまりこだわるところじゃないのかな? などと不安になったりもしました。("どうして3人"で1件ヒットしましたが、必ず伝達が行われるという仮定に無理があるので、記者の名誉のために引用しません)


それから、こんな投稿も見つけました。



はじめまして  投稿者:梅ちゃん  投稿日:2007年 2月 3日(土)18時14分17秒 
何度もみました。。。。。
でも 最後なんでああなるわけ? 
なにを言いたい映画だった?
「社会の抑圧」?「AC」?「社会の歪み」 
http://8726.teacup.com/payforward/bbs?page=9



この記事を書いた後で調べた映画評論サイトの掲示板では物語の結末に憤りを感じている書き込みが非常に多く見られました。

この疑問は極めて重要なので、これに対するわたしの見解を述べて締めたいと思います。


 前述したとおり、世の中には善人もいれば悪人もいます。 
 もしあなたが目の前の人が善人であるか悪人であるか判断できるのであれば、善人だけを選んで可能な限り沢山の人に善行を行ってください。 
 しかし、残念ながら、あなたにはその判断は必ずしもできないでしょう。 
 悪人というのは、あなたが彼、あるいは別の者に与えた善意、ないしは行った善行を快く思わず、時にあなたに対して危害を加える場合があることを忘れてはなりません。
 あの結末は、これに対する警告です。 
 もう一度言いますが、この運動の目的は、善意を次に伝えることで拡散させていき、しまいには世界を埋め尽くすことです。その遂行には、確実に3人に伝えることこそが重要となります。 
 あなたが善人であるにもかかわらず、あなたが伝えるはずであった人に伝えられずに倒れたなら、この運動の拡散速度は確実に減速します。ですから、決して無理をしないでください。無理をすればそれだけ、理想の実現が遠のきます。 
 恥じるべきはしようとしないことであって、出来なかったことを恥じてはいけません。 
 あなたに出来ることを、あなたの出来る範囲でなおかつ“確実に”やる、それこそがこの運動にとってとても重要なことなのです。




(Please forgive the mistakes in English.)


The other day, When I had chatted with my friend, he told me about a movie "Pay it Foward".

The story of this movie,

First, A boy do something good for other 3 people, then they do something good for other 3 not for the boy.
So, they 3 x 3 people will do something good for other 3 too. Moreover, 3 x 3 x 3 people are do something good for....

Thus, the goodwill spawned by only a boy is spread guradually, Finaly, it will cover all of the world.

The story progress with this way of thinking.

It is just like benignant ponzi scheme.

While chatted with my firend, I thought that "It looks interesting.", and wanna play a prank on him, I asked him that "Why 3 people, do you know?".

He said "I don't know.".

Then I said as follows.


In the first place, is the human good or evil? 
I think that someone is good and someone is villain. 
The extent of goodness or evilness is differernt, but when I think about that the world is not filled with goodwill and not filled with evil to, I think that the ratio would be half and half. 
Namely, the probability a person who standing next to you is good is 1/2, alternatively, probability of evil is 1/2 too. 
If someone meets a goodwill ask no favors, good people will appreciate it, but evil will sneer. 
If you do something good for other randomly, and prompted to do it to someone else, the probability he do it will 1/2. That means, if you do twice, one will be not performed. 
Provisionally, if the number of people transfer the goodwill is only one, the probability that transmit to the next is 1/4. and next is 1/8, and next is 1/16.... It will be getting less steadily, break somewhere surely. 
How it will be if it is two? If the probability works exactly, one transfer to other, but one doesn't it. As a result, the number of people transfer the goodwill is always only one. This is just a bucket brigade, never spread. 
So, what happens when this becomes three? one of two will transfer, so 1.5 of 3 will agree to take part in this strange movement. 
In other words, one do this, 1.5 people transfer it to the next. Namely, 1.5 × 1.5 × 1.5...,  the number of people who is receive the goodwill will be increased by power of 1.5, and it will be spread. 
In theory, do 10 times transfer, 57.6 people recive it. In 20 times 3325, 30 times 190,000 people, 40 times 11,000,000 people, 50 times 640,000,000 people. At 56 times do it, it will be 7,200,000,000 people, and the ground is dominated by goodwill.
(In the assumption that evil is half of all, it will not be spread more after the 55 times because there is no good people other else.) 
If 4 or more, It is clear that the number of times we need is fewer. 
But the act that does not require a return is hard work usually. In real life, everyone can not afford, having compassion to others is difficult comparatively. If it is for quite stranger, it would be more difficult. 
So, There is no hope to transmitted to as many people as possible is. If we must transfer, the number of that we transfer should be as little as possible. 
This movement is intended to be filled all of the world at last by transfer to next continuously, it must not be too much enough to inhibit the willingness that we transfer to the next. 
When I think of these, 3 is the required minimum number, as much as possible to reduce the burden on the individual, to transfer to next surely. 
This is my conclusion of magic number "3".






2012年11月18日日曜日

とある朝の夢~道を踏み外した人間の妄想

兄が子供を拾ってきた夢を見ました。

うちで育てることになって、子供の服とか下着を買いに行く計画を立てたりしました。

そのうちにいつのまにか子供は小学校高学年になっていて、「ああ、中学の学費とかなんとかしないとな…」などと考えているうちに目が覚めました。

たぶん、昔、兄が猫を拾ってきたことに起因するのだと思います。

とりあえず、子供がとてもかわいいと感じました。

普通のありきたりな人生を歩けなかった人間は、こんな夢を見ることがあるようです。








2012年11月17日土曜日

猿はバナナを取るためにはしごを登るか?~飴とムチの教訓

知人がfacebookで、とあるブログの記事を紹介していました。その記事は以下のようなものです。


 部屋に8匹の猿を入れます。 部屋の中央にははしごが設置されています。 そのはしごに登ると天井から吊るされたバナナ(注:正確にはbunch of bananasとあるので、バナナの房)を取れるようになっています。 
 猿がはしごを登ろうとすると、全ての猿に氷水が降り注ぎます。 しばらくすると、猿達は氷水をかけられたくないので、はしごを登る猿を攻撃するようになります。 その後、どの猿もはしごを登ろうとしなくなります。 
 元々いた8匹のうちの一匹を新しい猿に置き換えます。 新しく来た猿は、はしごとバナナを見ます。 何故、他の猿達がバナナを取りにいかないのかと不思議に思いつつも、新参者の猿はハシゴを登ろうとします。 すると、他の猿達はその新参者の猿をフルボッコにします。 新参者の猿は何故ボコボコにされたのかはわかりませんが、梯子を登ろうとするのをあきらめます。 
 元々いた8匹のうち、さらにもう一匹を新しい猿に置き換えます。 新参者の猿はハシゴを登ろうとしてボコボコにされます。 以前ボコボコにされた新参者だった猿も他の皆がやっているため、今回の猿をボコボコにする行為に加担します。 しかし、何故はしごに登ろうとする猿を攻撃しなくてはならないのかは全くわかっていません。 
 元々いた8匹の猿を一匹ずつ置き換えます。 元々いた全ての猿は部屋にいなくなっています。 今、部屋に居る猿は氷水を浴びせられたことがありません。 また、はしごに登ろうとする猿もいません。 全ての猿は、はしごに登ろうとする猿を狂ったようにボコボコにします。 しかし、何故そうしているのかは誰も見当がつきません。
 そして、企業文化(企業規則、方針)もこのようにして決まっていくのです。

この記事も元々は海外の記事の流用のようで、その出所はよく分からないようです。( http://www.geekpage.jp/blog/?id=2007%2F10%2F22

なかなか的を射ているので、さらに考察してみることにしました。



では、最初の猿が登った時に、他の猿にも均等にバナナを分けあたえるとどうなるか?

元の記事には明記されていませんが、はしごを登るのはかなり困難な作業だと思われます。もし簡単なら、氷水など気にせずに沢山の猿がはしごを登るでしょう。バナナはそれくらい魅力的ですから。

バナナは魅力的だけど、はしごを登るのは大変なので躊躇する、という前提でないとそもそもの話が成立しません。


そのはしごを登らなくてもバナナがもらえるなら?

そうすると梯子を登った猿はバカらしくなって自分から登らなくなります。

大変なはしご登りですから、登らなくてもバナナが貰えるのであれば、あえて登らなくなるのは当たり前のことです。誰かが登って、そのおこぼれにあずかっていたほうがずっと効率が良いのです。





誰もはしごを登らないので、結果として、誰もバナナが貰えなくなります。

猿を8匹も飼っているということは飼い主は見世物にしてお金を取ろうと思っていて、そのお金からバナナ代も出ているのですが、猿がはしごを登ってくれないから、見物客は面白くないのでお金を払いません。

そうすると飼い主も懐具合に困ってくるので、登る猿がいなければ、なんとかはしごを登らせるために全猿に冷水をかけ始めます。

そこで「これはたまらない」と、また勇気ある一匹がはしごに登るわけですが、今度は飼い主も懐がさみしいので、その猿にバナナは取らせるけれど、他の猿に与えるバナナの量は少なくします。

とりあえず前回のことで、全部の猿に氷水をかければ登ってくれる猿がいるということに気づいた飼い主は、猿が登らなければとにかく氷水をかけるようになります。

しかし、一度離れた見物客の心はなかなか戻らず、猿がたまにはしごを登ってもあんまりお金を払ってくれなくなっているので、飼い主の懐はあいかわらず潤いません。懐具合が厳しいので、登った猿に与えるバナナの量も減っていきます。

飼い主としては見世物の猿に死なれては元も子もないので、仮に登らないとしても、最低限のバナナは与えなければなりません。ですから、苦労してのぼった猿によって得られたお金の多くが、何もしない猿のバナナ代に消えることになっていきます。

そのうちにはしごを登る猿は、苦労して登って得られるバナナの量と何もしなくても与えられるバナナの量の不均衡、登ってもかけられる氷水に理不尽を感じて部屋から逃げ出します。

残ったのは常に氷水をかけつづける飼い主と、氷水をかけられても気にせずはしごにも登ろうとしない、冷たさへの耐性をつけた他力本願な猿だけになります。

このようにして、企業は競争力を失っていくのです。

そしてこれは、実話です。



※註
 読んでいただいた方は気づいていると思いますが、原文とわたしの考察とでは、バナナと氷水の持つ意味が変わっています。
 原文でのバナナとは従業員全体の利益であり、氷水はこれを快く思っていない経営陣による罰や粛清です。
 一方、わたしの考察ではバナナは単純に地位や金銭といった報酬であり、氷水は経営陣の叱咤です。
 原文の氷水はそれを行うことに対する罰であるのに対し、わたしの考察ではそれを行わないことに対する罰になっています。
 原文では動物学的考察のように話を進めていって、最後に、これは人間組織に対しての揶揄であることを明かしています。
 わたしの考察は、この種明かしが既に行われた後なので、その種をもっと現実社会に照らし合わせるとどうなるか? という観点で行っています。
 原文のような会社は実際に存在し、このかなり酷い、いわゆるブラックと呼ばれる会社にわたしも在籍したことがあります。(現在、人権侵害や賃金不払いなどで訴訟を起こされていて、既に結審し、この12月に地裁で判決が下ることになっているようです)
 ただ、わたしがいた会社ほどブラックであれば、気づいたら一目散に逃げてしまえば良いだけなのでそれほど問題ではないと考えています。
 わたしにとっては、バナナを得るためにひたすら努力してもじわじわとバナナが減って行って、気づいたら何をしても全員が貰うバナナが同じになっていた、というのがずっとタチが悪いと感じます。これは資本主義下にある企業にもかかわらず、既に社会主義下と変わらなくなっていて、それが競争力を失っていくことは歴史から考えて明白だからです。
 こういう会社は、すぐにあきらめたり投げ出したりしない強い心を持った勤勉な者ほど損をし、「これはダメだ」と見限るまでにかなりの貴重な時間を浪費することになるので、要注意です。




:Original

 Put eight monkeys in a room. In the middle of the room is a ladder, leading to a bunch of bananas hanging from a hook on the ceiling. 
 Each time a monkey tries to climb the ladder, all the monkeys are sprayed with ice water, which makes them miserable. Soon enough, whenever a monkey attempts to climb the ladder, all of the other monkeys, not wanting to be sprayed, set upon him and beat him up. Soon, none of the eight monkeys ever attempts to climb the ladder. 
 One of the original monkeys is then removed, and a new monkey is put in the room. Seeing the bananas and the ladder, he wonders why none of the other monkeys are doing the obvious, but, undaunted, he immediately begins to climb the ladder. All the other monkeys fall upon him and beat him silly. He has no idea why. However, he no longer attempts to climb the ladder. 
 A second original monkey is removed and replaced. The newcomer again attempts to climb the ladder, but all the other monkeys hammer the crap out of him. This includes the previous new monkey, who, grateful that he's not on the receiving end this time, participates in the beating because all the other monkeys are doing it. However, he has no idea why he's attacking the new monkey. 
 One by one, all the original monkeys are replaced. Eight new monkeys are now in the room. None of them have ever been sprayed by ice water. None of them attempt to climb the ladder. All of them will enthusiastically beat up any new monkey who tries, without having any idea why. 
 And that's how company policies get established.


:My Consideration (Translate)

(Please forgive the mistakes in English.)



 I am thinking about after this.

 Well, If all the monkeys get a bananas evenly when the first monkey climb the ladder, How would it be ?

 Although it is not written in the original post, it seems very difficult that a monkey climb up the ladder. If it is easy, many monkeys are climb it spite of ice water . Bananas are almost fascinating.

 If it is easy that climb the ladder, it is strange in logically.

 Then, How it goes, if monkeys get bananas without climb up the ladder ?

 The monkey climbed the ladder first will never climb it up again.

 It is naturally that monkeys climb the ladder no longer, if they get bananas without climb it. Because it is very difficult and is hard work. Waiting for bananas are dealt when anyone climb the ladder is much more efficient than climb it.

 Then, no monkey climb up the ladder, no monkey get any bananas.

 The reason that the owner keeps monkeys also 8 one, he want to get sightseeing fee by exposing the monkey. Money to buy bananas are out from the fee. But, no monkey climb the ladder, no one pay the fee.

 The owner has financing trouble, and he will spray ice water to all monkeys in order to make any monkey climb up the ladder if no one try.

 Then, a courageous monkey think about ' This is tough ! ' climb up the ladder.

 In this time, the owner give him bananas, and cut down bananas to give to others, because the owner has not many money.


 Tentatively, The owner notice that any monkeys are climb up if he spray ice water to all of them. He is getting spray it anyway if no monkeys climb up.


 But, the popularity once lost can not be recalled easily, people don't pay many fee if a monkey climb up the ladder. Therefore, The owner has financing trouble continuously. The owners money getting less, bananas that is given for a monkey climb up the ladder is getting less too.

 For owner, the worst of all is that the all monkeys died. Even if no monkey climb the ladder, he must give minimum bananas for them. So, many of the money obtained by the monkey climb the hard way is consumed as a cost of bananas for monkeys does nothing.

 Soon, the monkey that climb up the ladder feels imbalance between amount of bananas he get when he climb up and when he don't, and feels unreasonable to the fact that he will be sprayed with ice water regardless of whether he climb or not. Finally, he run away from the room.

 All that remains are the owner who is spraying with ice water continuously, and monkeys never climb up the ladder, with tolerance to cold, always rely on others.

 Thus, many company lost competitiveness.

 And this is non fiction.






2012年11月12日月曜日

ご質問です!再び~おまえ、元気すぎるだろ!



タイトル:ご質問です!
投稿者:たかくん 
こんにちは。初めて投稿します。
今、LightWaveを使っているのですが、グラフィックカードについてホニャララ…


インターネットを利用していれば、大抵は質問&回答型の掲示板を見たことがあると思いますが、そういった掲示板でよく目にするのが、上記のような投稿です。

…、 なんか、デジャヴュ…。

この投稿に違和を感じるかどうかは、どうも、ある年代を境にして真っ二つに分かれるらしいです。

今回の論点は勿論、敬語表現についてではありません。これについて読みたい方は、「ご質問です!~お前たち私の疑問にこたえなさい」(http://dracul-dormea.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html)をご覧ください。

今回の主題は、感嘆符についてです。

「!」 これですね。



感嘆符はかなり昔から存在して、いまさらその起源をさぐるのは無理でしょう。英語では、エクスクラメーションマーク(Exclamation mark)と言い、日本語で用いられるのとほぼ変わらない用途で用いられます。恐らく向こうが起源でしょうが、具体的なことは知りません。

この記号の意味についてはあまり説明する必要は本来はないはずなのですが、wikipediaから引用します。


感嘆符(かんたんふ)とは、約物のひとつで、「!」と書き表される。雨垂れ、または俗にビックリマークとも呼ばれる。また英語表記に由来した呼称「エクスクラメーション・マーク (exclamation mark)」と呼ばれることもある。強調を表し、強調を表す対象の後に置かれる。英語では「エクスクラメーション・ポイント (exclamation point)」ともいい、俗に「バン (bang)」や「スクリーマー (screamer)」などとも呼ばれる。
視覚的な表現として、注意危険であることを表現するために用いられる。

用法としては、

これは危険なので、絶対に行わないでください!
そんなことしちゃ、ダメ! 

のようになります。
あるいは、感動したときにあふれる気持ちを表現します。

ああ、すばらしい!

また、相手に対して猛烈に抗議する場合も使われます。

窓を閉めとけと言っただろ!

このほかに、勢いを表す意味で用いられることもあります。

さぁ、行くぞ!

こんな感じですね。

そろそろ、「おまえ、何でそんなあたりまえのことをごちゃごちゃ説明してるの?」と考えている方も多いと思いますが、もうちょっと我慢してください。

この感嘆符「!」ですが、wikipediaでの説明の通り、この記号自体がその前の文章を強調する効果があるわけです。簡単に言うと、ものすごく「勢い」がつきます。この表現を口で発音すると、おだやかに語るのではなく、怒鳴ったり叫んだりする形になるわけです。

タイトル:ご質問です!

うわぁ、なんか人ごみの中で叫んでるやつがいるなぁ… となるわけです。

たとえば命の危険が迫っているときに、

助けてください!

と叫ぶのは、ごく自然なことです。これは一大事と、手を貸す人は沢山いるでしょう。
ところがこれが、

助けてください!歯に小魚の骨がつまって気持ち悪いんです!!

だったらどうでしょう? うるせぇよ、バカ! と、普通なら思われますよね。その程度のことで大騒ぎできる元気があるなら、もうちょっと自分でがんばってみろよ、となります。

どうも、ある年代以降の人は、自分がバカげたことを大声でさけんでいるのだ、という認識ができない方が多いようなのです。

本当に困り果てて「助けてください!」というなら気持ちはわかるのですが、実際にはものすごく軽い気持ちで感嘆符「!」を使い、それがあたりまえだと思っているようです。自分が叫んでいることにすら気づいていません。簡単に言うと、言語感覚がずれているんです。

そういう人たちは、気軽につかって何が悪いの?と疑問に思うでしょうね。


考えてみてください。

あなたはデザイナーです。

あなたは印刷物のデザインを受注し、3日間ほとんど寝らずに素晴らしいデザインを行いました。良いデザインが出来たと自信もあります。

このデザインをクライアントに見せて了承を得るのですが、直接会えない事情があり郵送しました。

数日後、そのデザインが返送されてきました。そこには次のような記載がありました。

赤が強すぎる! もっと薄く!

イラッとしませんか?

こういうことを平気で書く人が、世の中にはたくさんいるんですよね…

それで、「ああ、よっぽど気に入らなかったんだろうな…」と思うのですが、後日会って話してみると「大体いいんですけど、あそこだけ気に入らなかったんですよね。ワガママ言ってすみません」とか、拍子抜けするほどやわらかい口調で話されたりすることになります。

赤が強すぎる もっと薄く

感嘆符を抜いただけです。受ける印象はどうでしょう?

理想を言えば、「赤がつよすぎるのでもう少し薄くしてください」と書いてほしいところですが、相手も忙しい身でしょうからそこまでは望みません。でも、感嘆符を省くだけでずっとアタリがやわらかくなるのは感じられるのではないでしょうか?

受注を行う仕事をしていると、明らかに相手のミスによる修正を行わなければならない時が頻繁にあると思います。その時に相手から

申し訳ありません! こちらのチェック漏れでした! 
大変お手数ですが、修正のほど、何卒よろしくお願いします!

なんてメールが来たら、どう思いますか?
「なんかやたら元気でハイテンションだけど、お前、自分が悪いってこと理解してるのか?」と思いますよね、労力を割いて修正するのは相手ではなく自分なんですから。確かに詫びてもいるし言葉遣いも丁寧ですが、うわっつらの謝罪でぜんぜん反省なんかしてないな、どうせまたやらかすぞ、こいつ… という印象を持ちかねません。

重大な失敗をした人が、ニコニコ笑いながら大声で「すいませんでした、次回から気をつけます!」と言ってきたら、そんな人は絶対に信用しないでしょう? 謝罪するときは、神妙な面持ちで詫びるのが普通です。

にもかかわらず、こういうことを書いてしまう人が、ある年代を境に多いんですよね。


さて、ではその年代はどのあたりかですが、大体昭和50年代以降生まれの方で、具体的には高校・大学の頃に携帯電話を使うことが当たり前になった世代以降です。

携帯電話の普及はそのまま、電子メールでのコミュニケーションの日常化を促しました。

友達関係を何よりも重視する若者にとって、文字だけのコミュニケーションはかなり不安があり、絵文字や顔文字を使うことがあたりまえで、それを使わないのは手抜きで失礼なことになるという、妙なマナーができあがることになりました。

「明日会おうね」では足りず、「明日会おうね!」とすることが普通になり、さらにハートやピースマークといった絵文字を補うことが常識となっていったわけです。

こうした世界で生きてきた人は、感嘆符「!」をつけることが相手に対して親密さをアピールする基準になっているようです。

ですから、この過剰な感嘆符の使い方が減っていくかというとそれはありえず、むしろこれからは常識化していくことになると思います。

実際、2000年代中盤くらいには掲示板で「!マーク、うぜー」といった書き込みが見られたのですが、最近はめっきり見なくなりました。感嘆符を多用する世代が沢山流入して、完全に市民権を得てしまっているのだと思います。

言葉は生き物なので、時代とともに移り変わっていきます。感嘆符「!」に心を乱される古い世代は、早く朽ち果てるべきなのかもしれません。

ただまぁ、とりあえず現段階では、

タイトル:ご質問です!

なんてわめいてるうちは、もうちょっと自分でがんばる余地があるほど元気なので、助ける必要はないなと思うわけです。

本人は軽い気持ちで使っているのだと思います。前述したように好意的なアピールでもあるでしょう。「ねぇねぇ、ちょっと教えてよ」と友達に尋ねるくらいのつもりで、全く関係ないアカの他人に声をかけているんです。普通、そんな態度で知らない人間にものを尋ねられたら相手にしませんよね。

ですから、本当に困り果てて藁にもすがりたいなら、もうちょっと自分を弱々しく見せる努力をしましょう。大した風邪でもないけど、学校を休みたいからとてもつらいフリをしたことありませんか? あの要領です。

別の観点になりますが、元プロテニスプレイヤーに、松岡修造という方がいます。何を話すにも熱意を持って話すので、聞いているほうは若干疲れてしまいます。言ってみるなら、全ての言葉の語尾に「!」がある状態なんですよね。そういう文章を見せられると普通の人は疲れます。親しい仲ならわかりますが、仕事上の付き合いしかない相手に感嘆符を使いまくられるとどうでしょうね?

感嘆符「!」はとても強い記号で、強力な刃物のような存在です。ですからむやみに振り回すと周りの人を傷つけることを理解しましょう。



ちなみに、とある機関の調査で、テスト用紙の採点のマーカーを赤色から紫色に変えたところ、それを受け取る小学生の心理的負担が劇的に改善されたそうです。赤色というのは攻撃的な色で、この赤色で「0点」とか書かれると、人間はものすごくストレスを感じるようです。

印刷業界では「修正指示は赤色のマーカーで」というのが常識になっています。ですがこれは人間的にやさしくないので、紫色のマーカーに変えるべきです。

赤が強すぎる もっと薄く

ではなく、

赤が強すぎる もっと薄く

と書くようにすべきでしょう。そうすると、もっとみんなが幸せに笑ってすごせるようになるかもしれません。紫は輝度が低いので普通の文字に埋もれてしまいがちですから、必ず蛍光紫にしてください。マーカーなんて安いですから企業であれば経費で購入し、クライアントにそのマーカーを渡して指示を書いてもらうようにすればよいのではないでしょうか?

感嘆符「!」についても同様にいえることですが、あなたが独り言を言っているのでなければ、その言葉の向こうには必ず人がいます。

相手の立場になって言葉を発することが大切だと思うのです。


2012年11月11日日曜日

ご質問です!~お前たち私の疑問にこたえなさい


タイトル:ご質問です!
投稿者:たかくん 
こんにちは。初めて投稿します。
今、LightWaveを使っているのですが、グラフィックカードについてホニャララ…


インターネットを利用していれば、大抵は質問&回答型の掲示板を見たことがあると思いますが、そういった掲示板でよく目にするのが、上記のような投稿です。

これに出会う頻度はびっくりするほど多く、そのたびに呆れ果てるのですが、なかなか慣れません。

最初の頃はこういった質問に出会うとその間違いを指摘していましたが、こういう投稿をする人は大抵精神構造が幼稚なので(だからこういう投稿をしてしまうのです)、素直に自分の非を認められず、多くの場合逆切れするのでだんだんめんどくさくなり、その質問にかかわりあいになることそのものをやめてしまいました。

「たかくん」はハンドルネームから推測できるとおり、まだ若いのでしょうね。質問内容を考慮すると小中学生ということはなさそうですが、10代後半から20代前半くらいかと思われます。

たかくんでも、人に教えを請うときには「敬語」を使わなければならない、ということは理解しているようで、その結果が、

タイトル:ご質問です!

となったわけです。

これがとても無礼な発言であるということを認識できない人は多いようです。


敬語が使えない若者が増えているようですが、「俺は誰にも媚びねぇ」とか「敬語みたいな形式的で古臭い風習は廃止すべき」とか信念があるのかと思うとそうでもなく、もちろん、中にはそういう反骨の精神の方もいるでしょうがそれは少数で、多くの場合、単純に敬語の仕組みが理解できないだけのようです。


たかくんは、たかくんなりに誠意を持って質問しようとしたのかもしれませんが、それをきちんと表せなかったらなんの意味もありません。なんの意味もないどころか、表現の仕方を間違えたために意図していない全く別の意味になってしまっています。



「お」「ご」をつけると丁寧な表現になることは誰でもわかると思われます。たかくんでもそれは分かったのですから。

ここで考えなければいけないのは、「お」「ご」をつけたのが「誰の物」であるかです。

「質問」は、たかくんが困ってするので、たかくんの物です。誰から求められたわけでもなく、たかくんが自分自身のために他者に提示するものです。ですからその質問に「お」「ご」をつけると、たかくん自身を敬っていることになります。つまりタイトルの本質的意味はこうです。

タイトル:私が貴重な質問をしてやるので、お前たちはそれに答えなさい

無礼ですよね。

「ネタなのかな?」といぶかしんだりもします。でも、指摘すると本気になって怒り出すので、「ああ、やっぱりネタじゃなかったのか」と、落胆することになります。場合によっては別の人がでてきて、「え? 普通に言いますよね?」とか言い始めます。本当にあった、笑えない話です…

なぜこういう無礼な表現を多くの人が平気で使ってしまうかなのですが、そこにはちょっと変わった謙譲表現の存在が大きく関わっています。

私がご質問します内容につきましては、以上のようになりますが…

「ご質問です」が無礼なら、これも無礼だろ!と思いがちですが、これは正常な敬語表現です。それで多くの人が、「???」となってしまうのだと思います。

この2つの決定的な違いは、「ご質問です」と「ご質問します」の違いです。

なんと敬語では、「お」「ご」+○○+「する」という決まった形をとる場合に、それを謙譲表現としているのです。(念のため補足すると、謙譲表現というのは自分をあえて下げることで相手を相対的に上にもってくる表現のことです)

ですから、「ご質問します」といった場合には、

私のような者が、大変失礼ながら質問させていただきます

という意味になるのです。

なぜこんなややこしいことになってしまっているのか不思議ですが、そうなっているので仕方ありません。

ただ、「お」「ご」+○○+「する」が、必ず謙譲表現として受け取られ、適切な敬語として認識されるかというと必ずしもそうではありません。

このたび、わたしたちはご結婚することになりました

まぁ、ご祝儀なんかビタ一文払いたくなくなりますよね。

「お」「ご」をつける行為が一方的に発言者のもので相手には何の関係もない場合は謙譲表現としては受け取られないようです。


ですから、例えば

タイトル:ご質問します!

であっても、謙譲表現として適切かというとそうではないことになります。質問は質問者が利己的に勝手に投げるものなので、確かに文法上は謙譲表現ではあるが、敬意を表していると受け取られるかというとその可能性はわりと低い、となります。

そこで不安になって、「する」の謙譲語である「いたす」を使ってあえて二重敬語にし「ご質問いたします」と言ってみたり、もっとへりくだって「ご質問させてください」とか言ってみたり、さらにこびへつらって「ご質問させていただきます」あたりまで行ってしまって、もはや、おまえ俺のことバカにしてるのか?とすら思う文章になることもそう珍しくはなかったりします。

二重敬語自体が慇懃無礼(【いんぎんぶれい】見かけは礼儀正しいようだが、その実は無礼なこと。例:私みたいな凡人には、あなた様のような方のお考えになることは理解できかねますね)としてとらえられる側面があるので、よくわからずに敬語を使うくらいなら、率直な言葉で

タイトル:教えてください(>_<

の方が、よっぽど教えてあげようという気になる場合が多いことも理解しましょう。



なお、ものすごく有名な例ですが、「お見積り」については同様の理由で、逆に適切な敬語として受け取られる可能性が極めて高くなります。見積もりを行うのは見積り書をつくる側なので、作った張本人が自分の作った物に「お」「ご」をつけるのは自分自身を敬うことになって、正常な敬語の観点から考えると、やはり無礼です。

しかし、見積り書というのはそれを渡す相手のために作られる側面が極めて大きく、作った側ではなく、渡された側の所有物であるという認識が通念としてあります。

ですから現代社会において「お見積り」と書いても、「この無礼なクソ業者が!」と怒り出す人は、まぁ1000人いたら1人いるかな?くらいの少数だと思われます。

「ご祝儀」についてはもはや、100%完全に相手のために渡されるものなので相手の所有物であり、払うのが自分であってもこれを無礼だと感じる人はまずいないでしょう。

敬語を使いたいときには、その物や行為が誰のものであるかを考慮すると良いようです。

「入金をご確認しました」 
「ご入金を確認しました」

入金してくれたのは相手です。確認したのは自分です。

相手を持ち上げるため、相手の行為に「お」「ご」を付け、自分の行為にはつけません。ですから、正しいのは「ご入金を確認しました」になります。通常はさらに、自分を下げます。前述したとおり、謙譲表現をつかいます。「する」の謙譲表現は「いたす」なので、

「ご入金を確認いたしました」

となるわけです。二重敬語になる上、行為の所有権的観点から自分を敬っているととられる可能性が高いので、間違っても「ご入金をご確認いたしました」とは言わないでください。
(ちなみに上記の例は、とある掲示板に投稿されていたもので「入金をご確認しました」と言った方が実際にいるようです)


敬語なんて、そんな難しいものではないんです。TV番組でやっている「MAX敬語にしましょう」みたいなことになるとかなりの勉強が必要になってくるのですが、日常生活に差しさわりの無い程度の敬語であれば、ごくわずかな「公式」を覚えるだけで事足りるのです。




ところで、前職の地方出版社時代の話ですが、編集の人がとった電話を何気なく聞いていたら

「わかりました。○○にお伝えします」

と言い放ったのでズッコケたことがあります。(○○は、社員の名前)

それで、あくまでも穏やかに「お伝えしますは、○○を敬うことになって失礼だよ。『申し伝えます』だからね」と教えてあげたのですが、夕方になってその編集の人に

「わたし調べたんですけど、『お伝えします』でいいと思うんですけど。言語学の友達にも聞いてみたんです。Luckerさん、調べてみて(ニコッ

と言われてブチ切れたことがあります。

本当に、ロクな編集者がいない会社でした。そりゃ辞めますよね…






分からない人のためにあえて補足しますが、上で書いたとおり「お」「ご」+○○+「する」は謙譲表現ですので、

その件に関しては、明日お伝えしますのでお待ちください

と言った場合は相手に対して敬意を表していることになります。省略されていますが伝える対象が「あなた」であるからです。

しかし、先ほどの電話の場合は、

その件を、○○にお伝えします

なので、伝える対象は○○なことから謙譲表現は○○に対してであり、敬っているのは○○です。これは社会の一般常識なのですが、自分の身内のことを相手に話すときには相手よりも上にもってきてはいけません。たとえ○○が上司であろうと呼び捨てにします。


ですから、「○○にお伝えします」などと言うと、

わが社の有能な社員である○○様にお伝えしておいてやるよ、お前みたいな奴のためにな

という意味になるわけです。注意しましょう。

(本当は、「~やるよ、お前みたいな奴のためにな」という意味はありません。ちょっと話を盛っていますのでご注意を。詳しくはこちらの説明がわかりやすいかと思います。 http://okwave.jp/qa/q1049083.html




はい、これでこの話は終了と思いきや、もうちょっと続きます。この記事を読みながらもやもやしていた方は、「ご質問です!再び~おまえ、元気すぎるだろ!」(http://dracul-dormea.blogspot.jp/2012/11/blog-post_12.html)もご覧になってください。




※なお、たかくんはこの記事を書くにあたって便宜的に創造したキャラクタであり、現実に存在する多数のたかくんとは全く関係ありません。




2012年11月10日土曜日

人間は考える葦であるか?~機械の体を手に入れた人間の話

以前働いていた地方出版社で、非常に脱力する原稿と出会ったことがあります。

とある資格試験用の問題集の原稿なのですが、「このように組み版してください」と回ってきたもので、嘆かわしいことに編集のチェックを通過したものです。(組み版【くみはん】=印刷用の版をつくること、現在では電子データとなっている)

■125ページ 問題4すべて差し替え(←編集からの指示) 
問題4 トレーニングの強度の指標に用いられないものはどれか。  
a. %VO2 max
b. DLW
c. ワット
d. メッツ  
ア a イ b ウ c エ d  
解答 イ
解説 b. DLW:二重水素

どうやらこれは比較的頭の良い人と、比較的頭の悪い人という両極端が陥りやすい罠で、この両端の人は何が問題なのか気づかない事があります。普通の人は案外、すぐにこの問題文のおかしさに気づくかもしれません。



2006年のことですが、WEB業界で働く人たちの集まりで「『わかりやすさ』を実現する 認知心理学からの情報デザイン入門」というセミナーが開かれました。

このセミナーで、講師の方が出した問題の一つが、次の図のようなものでした。


【問題】 このグラフのおかしいところを挙げ、正しなさい。(図1)


(実際のグラフはもう少し違ったと思いますが、もう詳細は失念してしまいました)

これは恐らく、この問題だけを見ても答えはでません。セミナーの趣旨を加味しないと正解には辿り着けないでしょう。















答えはこうでした。(図2)



図1では、各グラフに対してA、B、Cという記号を割り当て、それぞれが意味する内容を別に示して対比させることでそのグラフが何の推移を示しているかを見る者に伝えようとしています。このように、各系列のタイトルをまとめたものを「凡例(はんれい)」と呼びます。

凡例は多くの図で用いられ、とても一般的です。ですが、果たして本当に凡例は必要なのでしょうか?

図1と図2を比べていただければ、どちらが分かりやすいか一目瞭然ですね。わざわざパソコン、テレビ、車をA、B、Cに置き換える、必然的な理由というものがこのグラフには存在しないのです。にもかかわらず置き換えを行っているので、このグラフを見る人は脳による無駄な「認識の置換処理」を行わなければならなくなります。

さらに図1では、凡例がA パソコン、B テレビ、C 車の順であるのに対し、グラフの方はA、C、Bと順番が入れ替わっていて、分かりにくさを一層増しています。この例では3つしか項目がないのでそれほど気になりませんが、仮に10ほどの項目があったら、グラフとタイトルの対比をするのはとても煩わしい作業になるでしょう。


冒頭で挙げた問題文のおかしさについて理解できなかった方でも、もう理解できるのではないでしょうか?

あの問題はこのグラフと同じ、極めて無駄な変換を行っているのです。


問題4 トレーニングの強度の指標に用いられないものはどれか。  
a. %VO2 max
b. DLW
c. ワット
d. メッツ  
解答 b
解説 DLW:二重水素


これで良いですよね?

以前テレビで見たお笑い芸人のコントに、

次のうち正しいものを選びなさい。 
A. b
B. c
C. d
D. e

というネタがあり、思わず笑ってしまったことがあります。

お笑いのネタになるくらいですから、凡例に代表される情報の置き換えを用いることの理不尽さを、実は、かなり多くの人が無意識のうちに感じているのではないかと思います。それはとても機械的で、人間的ではないからです。

私は図1、図2のグラフ作成にあたって

Adobe Illustrator  http://www.adobe.com/jp/products/illustrator.html

というソフトを利用しました。商業印刷の場で利用されている、いわゆるプロ向けの本格グラフィックソフトウェアです。
(本来はこの辺にAmazonのリンクバナーを貼って収益を期待するのでしょうね…)

ですが、普通の人はグラフというと、大抵はパソコンを買ったときに既にインストールされているMicrosoft Excelを使って作成すると思われ、必然的にそのテンプレートに従ったグラフになり、その結果、あたりまえのように凡例がついたグラフが出来上がることになると思います。

そういったものを常日頃からみていると、「グラフとはこういうものだ」と錯誤が生じてしまうのではないでしょうか?


もちろん、凡例が絶対にわかりにくいというわけではありません。複数のグラフを列挙する場合などは凡例を作成した方が状況を把握しやすくなることも十分に考えられます。大切なのは、今作るその情報は「他人に理解してもらうために作られるものである」という極めて根源的な作成動機を認識することです。理解してもらうために作られるものであるならば、当然、その理解を妨げるような情報形態であってはならないはずです。



ただ、たとえ分かりにくいということが明白であっても、そうせざるを得ないケースも存在します。

出版社在籍時に受託した仕事で、地図の3つの領域に異なる網掛け処理を行い、その網について凡例を作るように指示されました。領域は地図に対してかなり広く、単純なものでした。埋蔵文化財センターが作成する発掘報告書です。

この地図で凡例を作る必要性は全く感じられなかったので、営業経由で「領域に直接ラベルを記述した方がよいのではないか?」と、問い合わせてもらいましたが、帰ってきた答えは「凡例を用いてください」ということでした。


原稿と提案のイメージ


(地図はgoogleマップをキャプチャし引用しました)


官公庁の仕事では「万人にとってどうあるべきか」はあまり求められておらず、「規範に合っているか」「書式に則っているか」ということが重要なのだなと再認識することになりました。

埋蔵文化財の発掘報告書というのは、沢山の人に知ってもらうために作られるのではなく、事実をありのままに後世に残すことが目的であって、そこに分かりやすさは求められていないようです。もし、その事実を世に広く知らせたいと思ったなら、そのときに初めて、その「事実」の蓄積を再編集しなおせばいいのでしょう。再構築するなら、決まったフォーマットでデータが蓄積されている方が都合がいいのです。(印刷物なので、ソースデータとしての価値はほとんどありませんが)



さて、冒頭の問題文に話を戻します。

では、なぜあのような無駄な置き換えを行ったのか、ということですが、極めて単純です。この資格試験で出題される問題の多くが、次のような複数選択の形をとっているからです。


集団の健康指標として正しいものはどれか。 
a.高齢者の多い集団では、死亡数も増加するので、異なった年齢構成の集団
間での死亡率の比較は意味をもたない。 
b.生後4週間未満の死亡を乳児死亡といい、母体の健康状態、環境衛生、生
活水準に強く影響される。 
c.平均寿命は0歳の平均余命を表し、集団の死亡状況を表す総合的な健康指
標である。 
d.有病率とは単位人口に対する一定期間内に新規に疾病異常者となったもの
の割合を表す。 
 ア a・b  イ b・c  ウ a・c  エ a・d


あの無駄な変換は、こうした雛形を何も考えず機械的にそのまま適用した結果なのです。

「何も考えていなかった」 ただそれだけのことなのです。




自分の行いについて、「なぜこうするのか?」「これは正しいことなのか?」と、常に問いかける姿勢がとても重要なのではないかと改めて感じさせられるところです。